日光修験時報「山王」

平成21年春号 より

お施餓鬼とその功徳

日光修験道法頭 伊矢野慈峰

◇餓鬼道の世界

お施餓鬼という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
餓鬼に施すと書きますが、この餓鬼とは、一般に飢えている鬼(霊)のことをいいます。
また多くの種類があり、焔口(えんく)餓鬼(口から炎を出して、何も食べることができない餓鬼)や多財餓鬼(財物を多く持ってはいるが、執着深く、なお財物を求めてやまない餓鬼)などが有名なものです。
いわゆる、貪欲(むさぼり)をもととする執着により、餓鬼に生まれるのです。この餓鬼たちの世界を、餓鬼道または餓鬼趣といいます。 この餓鬼道の生類(餓鬼世界の餓鬼たちも、ひとつの生命形体ですので、人間界の我々とは世界は異なりますが、生類としては同じものです)たちの共通する特徴は、満足することが出来ないことです。それは貪りの執着により起こり、その報いとして、目の前に飲食(おんじき)があり、それらを食べたいのに食べられない、飲みたいのに飲めないという飢渇の世界を現出させます。
この餓鬼の世界は、迷いの世界である六道世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天人道)のひとつです。
これら餓鬼世界の生類は、非力なものから大力(勢力を持つ)なものまでありますが、大力の餓鬼は諸天(神々)でも制することができない、とまで言われているほど力が強く、時には苦しさから逃れるために、人間界に係わり、人に縋(すが)って食物を求めたり、財物を貪ったりします。縋る餓鬼も縋られる人間も、共に苦しみの業を造り、増大していくのです。
これらの餓鬼について説かれたいくつかのお経がありますが、その中から特に有名なものを簡単に紹介しましょう。

餓鬼

◇誰もが持つ執着の心

ひとつは「仏説盂蘭盆経」、すなわち「お盆」の由来となったお経です。施餓鬼の直接の由来が書かれているのではありませんが、その餓鬼道の様子の悲しさを表したものでは、他の経説に勝っています。
ある時、神通力に勝れていた目連尊者が、自分の亡くなった母が、どの世界に生まれ代わっているかを神通の力で捜しました。すると浄土にも天界(神々の世界)にも、人間界にもいなくて、なんと餓鬼世界に生まれていることを知り愕然としてしまいます。
食べ物がなく、喉は針のように細く、飢え苦しんでいます。その様子に悲しみ、神通力をもって食べ物、飲み物をその世界に送るのですが、餓鬼の業によって、食べようとするとたちまち炭になり、飲もうとすると途端に炎となって燃え上がり、ひと口もくちにすることが出来ません。どうしようもなくなった目連尊者は、お釈迦さまのところへ泣きながら駆けつけ、救いを求めました。するとお釈迦さまは、目連にこう告げました。
「目連よ。お前の母は、お前を育てるために、他者に対し無慈悲であった。子を育てるためには、ある程度しかたがないことではあるが、それ以上に、お前という子に執着し、それが元となって貪りの心を起こし、増大し、その報いとして餓鬼道に堕ちたのだ」と。
このお経の後半は、その救いの教えと、それが起源となって行われるようになった「お盆」のことが説かれています。
この教えは、子を育てるという、生きものとして一般的な事柄の中にも、貪りによる執着の原因が潜んでいることを示しています。この心は、人間誰しもが持っている心で、餓鬼道への可能性を、誰もが持っているということなのです。

◇啓教阿難尊者

次に紹介するのは、阿難尊者の物語です。
ある時、阿難尊者が密林で禅定の修行をしていると、焔口(または面焔。口から火を吐き、顔が火で覆われていること)餓鬼が現れて、阿難尊者に言います。「お前は三日後に死んで、我と同じ世界に生まれるであろう」と。口より炎を吐き、喉が針のように細く、全身やせ細り、腹のみが膨らんでいるその餓鬼の姿に、尊者は恐ろしさもさりながら、自分もそのような世界に堕ちることへの嫌悪感もあったのでしょうか、すぐさまお釈迦さまの所へ駆けつけました。仏を拝礼し、この事を告げて救護を求めます。すると仏がおっしゃるには「汝はこのマカダ国の桝(ます)で四十九杯の食物を供養せよ」と。しかし阿難尊者は出家の身、それだけの資力がありません。そこでその旨を仏に申し上げると、「ここに無量威徳自在光明加持飲食と名付ける陀羅尼=真言がある。これを誦え、少量の食物を加持すれば、無量・広大の食物となり、遍く満足せしむるであろう」と答えられました。尊者はこの陀羅尼を授かり、さっそく修行をすると、出現した餓鬼は醜い姿を変じて天人の姿となり、飢えの心を消して天界に生まれました。これは餓鬼の悪業が消え、加持した食物を食することにより、福徳の業を得たということでもあります。また、この施しの功徳で、短命の業であった阿難尊者も、その業を変じて長寿の業を得、寿命を延ばすことができたのです。
こうして、施餓鬼の法がこの世界(人間界)にもたらされ、この法会が現在でも行われているのです。このことにより阿難尊者を「啓教阿難尊者」、教えを啓(ひら)かれた方、と申し上げます。

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