雲晴れてのちの光と思うなよ

無明に法性あり。これを知らざるを荒神となす。

法性に無明あり。これを知るを本尊となす。

無明、法性、もとより一念の心性を出ず。

「弁財天修儀」の開闢まで1年を切ったこの時期、「法界一如観」の「法性に無明あり」がピンとこず、本尊供や修儀のプレ前行を修しても、阿字観を修しても、はたっ!と膝を打つ状態は訪れず、悶々とした日々が何週間も続いていました。

何か忘れている教えがあるのではないかと、わからない苦しさのあまり仕方なく、昔、異国で教わったゾクチェンやチャクチェン(マハームドラー)の英語の本や教えのノートを読み返そうと思うまで煮詰まってしまっていました。

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講習会当日、集合時間より早く山王院に到着し、うららかな日差しの中でボンヤリしていてもしょうがないので、境内の掃除をすることにしました。

風で散らばった杉の葉を掃きながら、境内は心の土台、散らばった杉の葉は思考や感情なのか…、とか、分別を離れた掃除とは…、などと、あれこれ考えているうちに、掃くことに専念して少しだけ心が軽くなった気がしていました。

 

講習会では、師匠である伊矢野法頭により、役行者述・理源大師聖宝撰と伝わる『修験心鑑鈔』の講読(読み聞かせ)と講伝(教えの伝授)が行われました。

山伏の本義である三身即一・煩悩即菩提とは、本有の空寂(真如)にして常住不変、虚にして霊妙に知覚される心の本性であり、もとより備わっているものである。

(中略)

このような諸仏の師の教えを理解しないで、さまざまな感情や考えに翻弄されている状態を自分の心と認識することは、感覚器官より生じる感覚によって本来の仏性が損われている状態である。

冒頭から迷妄が吹っ飛び目が醒める思いでした。

この1ヶ月間、悩み抜いた答えが千年以上前に書かれた奥義書の中ですでに説かれていたのです。

 

「もうすでに知っているだろう?!」と直指(セムティ)のイントロダクション。

真如心の本質(本覚)と、衆生心からの自性真如のあり方(始覚)の往復去来。

自らのこころの本質である真如法性の浄菩提心(一覚の自性)にとどまり、自らの自性(如来蔵)中の宝珠を知るべきである、と、まるでメーテルリンクの「青い鳥」のような結論。

 

触れてもスルリと逃げてしまい、密教的な漸観では捉えきれなかった心の本性・性質・顕現のありようについて、この講伝の冒頭からすっかり迷いの雲が晴れてしまいました。

 

「修験は瞬観(瞬間)芸だから」、とは師匠である伊矢野法頭の言。

まさに、私自身のための個人授業と思えました。

書はそれを体得した師によってのみ、息吹を吹き込まれます。

 

「お師匠さま、今日の講伝は『修験心鑑鈔』にしようと、いつ決められたんですか?」

「ん?昨日の夜だよ。」

オソルベシ!師匠!。

師とともにあって、距離というものはない」という修験の師資相承をあらためて実感した講習会でした。

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悔しいけど師の教えの通り、「また来てしまった」と後悔しながら今年も峯に入り、自性の心蓮華を開示し悟入することにします。

慧乗房